Tuesday, July 25, 2023

宇宙が存在する前に神がいた

何千年も前に、預言者と呼ばれる聖なる人々によって聖典が書かれた。その本はキリスト教の聖書と呼ばれている。聖書は、宇宙が存在する前、空に星が存在する前、地球という惑星が存在する前、ただ一人の霊が存在したと教えている。その霊が神だった。神と呼ばれる霊には始まりも終わりもない。神は善良で、完全で、万能の霊である。神の本質は愛で満たされている。神以外の神々や霊は存在しなかった。

        神は人ではなく、嘘をつかれるはずもなく、人の子でもない。(聖書、民数記23:19)
        神は霊であり、神を礼拝する者は霊とまことをもって礼拝しなければならない。(聖書、ヨハネによる福音書4章24節)
        永遠の王、不滅の王、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光がとこしえにありますように。(聖書 テモテへの手紙 第一 1章17節)
        山々が生まれる前から、あるいは、あなたは地と世界をお生みになり、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。(聖書 詩篇90篇2節)
        聖なる神は、義において聖なる御自身を示される。(聖書、イザヤ5:16b)。
        愛さない者は神を知らない。(聖書、第一ヨハネ4:8)

 

神が宇宙を創造した

神は宇宙、星、惑星、植物、動物、そして地球に住む最初の人々を創造することを選ばれた。神がこのようにされたのは、神の愛と栄光の恩恵を受ける人々(被造物とも呼ばれる)が存在するためである。

        初めに、神は天と地を創造された。(聖書、創世記1:1)。
        神は地の獣をその種類にしたがって造り、家畜をその種類にしたがって造り、地を這うすべてのものをその種類にしたがって造られた。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地上のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させなさい」。(聖書、創世記1:25-26)
        皆......わたしはわたしの栄光のために造った。(聖書、イザヤ書43:7)

神は男と女を創造された

神が最初の人間を創造されたとき、神は霊と人間として直接語りかけられた。最初の男女、アダムとエバは、地上で永遠に生き、神と交わるよう招かれた。地上では、動物も人も死ぬことはなかった。神はアダムとエバに、神に従うこと、神が与えたどんなルールにも従うこと、さもなければ呪いによって罰せられることを警告した。神はこれらの人々に、地上にあるあらゆる良いものを与え、食べ物としてあらゆる植物を食べさせた。人々は地上に住み、毎日神と語らうことに喜びを感じていた。

人類は神を不名誉にします。

神がすべてのものとすべての人を創造し、地上のすべての良いものを与えたにもかかわらず、彼らは創造主である神を敬わなかった。最初の人間の男女は創造主に反抗し、神が彼らに与えた唯一のルールを破った。そのルールとは、"神が植えた特別な木の実を食べてはならない "というものだった。アダムとエバはその1本の木の実を食べたいと強く望み、神の唯一のルールを破り、その実を食べてしまった。

神は彼らを罰し、地上に痛みと苦しみを解き放ち、人が死ぬまでに地上で生きられる年数を制限された。最後に、神はアダムとエバの息子や娘たちが皆、彼らと同じようになるように、人々と大地を呪われた。彼らの子供たちは短命で死に、彼らの霊魂は死に、それぞれの子供たちは死ぬ前に神に対して罪を犯すようになった。

        そして神はアダムに言った、「あなたがたは神に背いたからである。(聖書、創世記3:17a)
        一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入ったように、すべての人が罪を犯したので、死はすべての人に及んだのである。

神の憐れみ

たとえ人間が神のルールを破ったとしても(これを「罪を犯す」と言う)、神はアダムとエバを憐れまれた。神は愛であるから、アダムとエバ、そしてそのすべての子供たちに、彼らの霊魂が生き続ける道を与えた。神は、人が神のルールを破ったとき(人が罪を犯したとき)、神に罪を告白し、動物のいけにえを捧げなければならないと決めた。

アダムとエヴェンは、神の掟を破り、特別な木の実を食べたことを神に告げた。すると、神ご自身が何匹かの動物を殺され、犠牲になった動物の皮で人々を包まれた。このようにして、神はその憐れみのゆえにアダムとエバの霊魂を死から救い、彼らの肉体はある日死んでしまったが、彼らの霊魂は永遠に神とともに生きるようになった。

神は律法を創られた

 神は、人がどれほど簡単に悪事を働くかを知っておられた。神は人類を愛しておられ、人類が互いに傷つけ合わず、悪い行いをしないようにと願われた。そこで神は、人々が互いに親切に接し、神のために良い行いをするように、さらに多くの規則をお与えになった。例えば、"母と父を敬え"、"人を殺すな"、"嘘を言うな"、"盗むな"、"酒に酔うな"、"神以外の霊や神々を拝んだり祈ったりするな "などである。神はこれらの規則を "律法 "と呼んだ。"モーセの律法 "と呼ばれることもある。

アダムとエバの呪いのせいで、それ以来生まれたすべての人が罪を犯した。すべての人間が神の掟を破った。そこで神は、律法に書かれている良いこと(「父と母を敬え」など)に加えて、罪を告白する方法、神の掟を破ったことを神に謝罪する方法、神の掟を破ったことを反省するしるしとして動物を生け贄に捧げる方法について、人間に指示を与えた。神はその告白と謝罪を聞き、動物のいけにえを見たとき、人の罪を赦し、人の肉体が死んだ後も、その霊魂が生きることを許される。

しかし、神が人に罪を告白する方法、すなわち律法を破ったことを謝罪する方法を与え、彼らの霊魂が救われるように動物の血のいけにえを捧げる方法を示されたにもかかわらず、人は神の律法を無視した。彼らは罪を犯し続け、謝罪もしなかった。人々の霊魂は死に続け、人々は気にも留めなかったようだ。

神が最後の生け贄を捧げる

神は愛であるので、人類に別のとても親切なことをされた。とても珍しいこと、とても憐れみ深いこと、とても愛に満ちたことだ。神は人間に罪を告白し、赦しを受けるあらゆる機会を与えようとされた。そこで、神と呼ばれる一人の霊は、ご自身の一部を地上に送り、人として生きさせた。彼は人に罪を犯さないように、また罪を赦してもらえるように教えるためだった。この神の一部は、イエス(同時に神でもあった)という人間の男として生まれた。イエスは、神が求める最後の血の犠牲となった。

イエスの歴史

新約聖書と呼ばれるキリスト教の聖書の第二部の大部分は、神がどのようにご自分が創造した人々の間に住むことを決心されたのか、また、神が亡くなるまでどのように人間の姿で生きられたのかを記している。彼はイエスと呼ばれた。イエスは人間の名前であり、キリストは肩書きである。キリストとは「神に油を注がれた者」あるいは「メシア」という意味である。メシアとは、"神が私たちの間に住んでおられる "という意味だ。

イエスは約2000年前、ユダヤ人が住んでいたイスラエルの国で生まれた。イエスが生まれる前、イスラエルはローマという大国に征服されており、ローマ兵が占領軍としてユダヤ人を支配していた。イエスは成長すると、ユダヤ人に罪の意味を教え始め、罪が霊的な死につながることを教えた。

人の肉体が死んだ後も、その霊は存在し続けることを教えた。人の霊魂は天国で永遠に生き続けるが、もし罪人であることを認めないなら、人の霊魂は永遠に地獄にいる。霊が地獄にいるとき、それは「第二の死、火の池」と呼ばれる(聖書、黙示録20:14b)。

イエスは神であり、ご自分が創造された人々の間に住まわれたので、たとえ彼らがまだ罪人であったとしても、ご自分の民に大きな愛を持っておられた。だからイエスは、その大きな愛ゆえに、彼らの罪の呪いから逃れる方法を与え、彼らのためにすべての人の罪の霊的刑罰を支払ってくださった。イエスはすべての人の罪を一度に贖ってくださった。イエスは、すべての人の罪のために、血のいけにえとしてこれを行った。

神であり人であるイエスは、地上に生きている間、決して罪を犯されなかった。イエスは神の掟を破ったことがない。イエスは一度も罪を犯さなかったので、イエスは他の誰の罪の罰も払えるほど聖なる方だったのです。罪を償うための生け贄は、罪のない完全に聖なる者でなければならなかった。だからこそ、罪人は自分の罪を償うことができないのだ。人が死んだ後、罪人が神の前で裁判を受けるとき、イエスに罪の償いを求めない限り、罪人の霊は常に「有罪」である理由もそこにある。

30歳から33歳までの3年間、イエスはイスラエル各地を巡り、人々に罪を告白し、神の掟を破ったことを神に詫び、聖なる生活を送るよう教えられた。そのためユダヤ教の指導者たちは嫉妬し、イエスを殺させようと画策した。

イエスは、自分たち自身が罪人であることさえ信じていないユダヤ人の指導者たちがイエスを逮捕するのを許された。ローマ軍の指導者たちの前で、彼らに冤罪を着せることを許されたのだ。ローマ軍総督は、イエスがローマに対する罪を犯しているとは考えていなかったが、ユダヤ人の指導者たちが暴動を起こさず、落ち着いていることを望んだ。そこで彼は、エルサレムの群衆を喜ばせるためだけに、この無実の男、イエスに処刑を宣告したのだ。

 ローマ人は死刑囚を非常に残忍な方法で処刑した。まず、死刑囚は全身に縞模様の傷を負わされ、凶暴に鞭打たれた。死刑囚がその鞭打ちを生き延びたなら、ローマ人はスパイク大の金属釘を死刑囚の手首と足首に打ち込み、「T」の形をした2本の丸太に死刑囚を固定した。

伸ばした腕(丸太に釘で打ち付けられた)をこの十字架に吊るされた死刑囚は、ゆっくりと窒息し、同時に鞭打ちの傷から大量に出血した。囚人が数時間経っても死なない場合、ローマ兵は囚人の足を折って、足首の釘を押すことができなくする。足首を押すことで、胸が圧迫され、息苦しさが和らぐのだ。足が使えないと、囚人は早く窒息してしまう。

イエスは鞭打たれ、あざけられ、十字架を担いで丘を登ることを強要され、十字架に釘付けにされ、当時の犯罪人なら誰でも死んでいたかもしれないように死んでいった。死んだ後、イエスの死体は、実際に死んだことを確認するために、片方の腎臓を槍で刺された。ローマ人たちはイエスの遺体を取り壊し、墓に封じ込めた。暴徒や宗教的狂信者が墓に集結して死体を盗むのを防ぐため、ローマ軍の部隊が墓に見張りを立てた。

墓に横たわって3日後、イエスの体は神によってよみがえった。墓を出るとき、イエスはローマ軍の警備兵をパニックに陥れ、その後、何百人もの目撃者と、3年間の教えの間に特別に訓練された人々に、生きておられるご自分を示された。イエスはその後、神として、また地球の創造主として統治するために天に戻られた。

イエスによるこの完全な犠牲は、すべての人の罪の罰を満足させたが、それは罪人がイエスを信じ、神に告白してイエスの犠牲を受け入れるようになった場合に限られる。イエスを信じる罪人は、神もイエスの犠牲を受け入れ、その人が犯したすべての罪を赦す。その人の霊は生きる。イエスはすべての罪の「贖い(支払い)」となり、もはや私たちを悔い改めのない罪人とは見なさない。

これは、イエスを信じた人がもうまったく罪を犯さないという意味ではない。しかし、イエスの犠牲のおかげで、神は私たちを悔い改め、謝罪した罪人とみなしてくださる。悔い改めていない罪人は天国に入ることができませんが、イエスから赦しを受けた悔い改めた罪人は天国に入ることが許されます。

実際、イエス(創造主である神と呼ばれる霊)は法廷を開き、死んだらすべての人を裁きます。死んだ人がイエスを信じていれば、その霊は赦されて天国に行く。死んだ人がイエスを信じていなければ、イエスはその人の霊を地獄に送る。

ナザレのイエスが、神から聖霊と力を注がれ、悪魔に苦しめられているすべての人をいやし、善い行いをされたことは、あなたがたも知っているでしょう。私たちは、彼がユダヤ人の地とエルサレムの両方で行ったすべてのことの証人です。彼らはまた、彼を十字架に掛けて死なせた。神はイエスを三日目によみがえらせ、すべての民衆にではなく、神によってあらかじめ選ばれた証人たち、すなわち、死からよみがえられた後、イエスといっしょに食べたり飲んだりした私たちに、見えるようにされたのである。そして、私たちに命じて、人々に宣教させ、この方こそ、神によって生者と死者の審判者として任命された方であることを厳粛に証言させた。この方について、すべての預言者は、この方の名によって、この方を信じる者は皆、罪の赦しを受けることを証言している。(聖書、使徒言行録10:38-43、この言葉は、イエスが死ぬのを見、また死からよみがえった後のイエスを見た目撃者であるペテロが語ったものである)。

イエスから赦しを受けるには

イエスがどのように死に、どのように死からよみがえられたかを知るだけでは、救いに十分ではありません。イエスは言われた、「『主よ、主よ』とわたしに言う者が皆、天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日、多くの者がわたしに、『主よ、主よ』と言い、・・・わたしは彼らに宣言する。(聖書、マタイによる福音書7:21-23)。

あなたは神が唯一であると信じている。悪魔もまた信じて、震え上がる。(聖書、ヤコブ2:19)

あなたの罪から、そして地獄から救われるためには(この神からの救いの賜物の申し出)、悪魔(悪霊)たちにはできない、あるいはしようとしない、信頼と信仰の一歩を踏み出すことが必要です。神を知り、神との霊的な関係に入るためには、霊的に二度目に生まれることが必要なのである。

 イエスは答えて言われた、"まことに、まことに、あなたがたに言う、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない"。(聖書、ヨハネによる福音書3章3節)

私たちの主イエス・キリストの神であり父である神は、その大いなる憐れみによって、イエス・キリストの死者の中からの復活によって、私たちを生ける希望へと新しく生まれ変わらせ、不朽で朽ちず、しかも色あせることのない嗣業を得させられました。(聖書、第一ペテロ1:3-5)。

この第二の誕生は、私たちが神に祈り、自分が罪人であることを認め、神の掟を破った罪を認め、罪のために地獄に送られるに値することを認めるときに、神によって成し遂げられる。私たちが祈りの中で神に呼びかけ、罪深い罪を認め、イエスが主であり、神がイエスを死者の中からよみがえらせ、私たちを支配してくださることを告白し、イエスが私たちのために死んでくださったという理由だけで罪を赦してくださるよう求めるなら、神は決して私たちを追い払われることはない。神は私たちのために、私たちの心と思いを清めてくださる。これが上からの第二の誕生であり、新生とも呼ばれる。

もしあなたが口でイエスを主と告白し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたことを心で信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心で信じて義となり、口で告白して救いとなるからである。(聖書、ローマ人への手紙10:9-11)

神は私たちがイエスを主と告白することを望んでおられる。イエスが主であることを、心の奥底で信じることを望んでおられるのだ。私たちが犯した罪を告白することを望んでおられる。すべての罪から悔い改めること、つまり、罪を犯すことから立ち返り、離れて歩むことを望んでおられる。そうすれば、主は私たちを救ってくださる。イエスが私たちのためにしてくださったことを受け入れる以外に、私たちにできることはない。イエスが死んでくださったのは、私たちが有罪とされ、地獄行きの宣告を受けなくても済むようにするためだった。イエスがそうしてくださったのは、イエスが私たちを愛しておられるからだ。私たちがイエスを愛することを望んでおられるのだ。

もしあなたが地獄から、そしてあなたが犯した罪の永遠の刑罰から救われたいのなら、祈らなければならない。祈りとは、ただ神に語りかけることだ。救われるため、あるいは生まれ変わるために祈る魔法の祈りや特別な公式はない。神はただ、あなたが罪を犯したことを認め、イエスがあなたの主であることを認め、罪を犯すことから離れることを望んでおられるのです。

もしあなたが神を信じ、イエスが主であり救い主であることを信じるなら、以下の祈りのようなことを祈ることが、神からの救いを無償の賜物として受け取るために必要なすべてなのです。神はあなたを新生させてくださる方なのです。

神への祈りの例

親愛なる天の父よ、私は罪人であり、地獄に行くのが当然です。しかし、イエスが私の犯した罪の罰を払うために死んでくださったことを知っています。私はあなたを信じ、イエスを信じます。罪を犯すことから目を背けたいと思います。どうか罪人である私を赦し、清い心と心を与えてください。あなたの霊で満たしてください。私を赦し、救ってくださってありがとうございます。私を新しい人間にしてくださってありがとうございます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

イエスは言われた: 「御子を見て信じる者がみな永遠のいのちを得、わたし自身が終わりの日にその人をよみがえらせる。(聖書、ヨハネによる福音書6章40節)

それゆえ、キリスト・イエスにある者には、今や罪の定めはない。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、あなたがたを罪と死の律法から解放したからである。(聖書、ローマ8:1,2)

もしあなたが神の賜物を受け入れ、自分の罪を認め、イエスが主であり救い主であることを告白したなら、あなたは新しい人生を与えられたのです。愛と平安と力に満ちた今の新しい命、そして死んだら神とともに天国で生きる新しい命。

もしあなたが神の賜物を受け入れていないなら、このすべてがあなたにとって愚かなことのように思えるだろう。「しかし、生まれながらの人間は、神の御霊のものを受け入れることができません。これらのことを考え続けてください。息をしている限り、主イエスに信仰と信頼を置き、イエスを救い主と告白することは遅くはありません。

キリストが救い主であることを受け入れたらすべきこと

世の中には、あなたがキリストに従う決心をしたことを一緒に喜びたいと思っている信者仲間が大勢います。実際、救われることは、イエスが豊かな霊的生活を送る生涯の第一歩に過ぎません。「わたしが来たのは、彼らがいのちを得、それを豊かに得るためである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。"(聖書、ヨハネ10:10) (聖書、ヨハネによる福音書10章10節b、11節)。

新しい豊かな人生を始めるために、次のステップを踏むことをお勧めします:

    祈る。祈りとは、ただ神に語りかけることである。いつでも、何度でも、好きなだけ神に祈りましょう。1、2文で十分ですし、適切だと思えばもっと長くてもかまいません。あなたを救ってくださったことを感謝しましょう。他の救われたクリスチャンと集い、礼拝することができるよう、助けてくださるよう神様に祈りましょう。罪深い行いを避けることができるように助けてください。

    聖書を読みましょう。祈りがあなたが神と対話する方法であるように、聖書は神があなたに語りかける方法だと考えてください。

日本語の聖書をオンラインで読む http://www.biblejapanese.com/jbibles.html

無料の英語聖書(と無料の強力な聖書朗読ソフト)を自分のパソコンにダウンロードする。http://www.e-sword.net/ (注:私自身、この聖書ソフトを使っています。最高品質で、とても使いやすいです。)

聖書の新約聖書部分(最後の半分)にある、ヨハネの福音書第1章から聖書を読み始めましょう。すべての聖書には目次があり、ヨハネによる福音書のようなすべての書名と、その書名が書かれているページ番号が記載されています。ヨハネ福音書の21章をすべて読み終えたら、ヨハネが諸教会に宛てて書いた手紙、第一ヨハネ、第二ヨハネ、第三ヨハネを読んでみてください。使っている聖書がとても古かったり、自分が話すのに不慣れな文体が使われていたりする場合は、新国際訳聖書(NIV)や新米国標準訳聖書(NASB)と呼ばれる聖書(書店で新品または中古)を購入することを検討してください。聖書に印刷されている名前に細心の注意を払ってください。NIVやNASBと似たような名前の聖書には、この2つほど注意深く翻訳されていない翻訳(版)がたくさんあります(たとえば、NABはNASBとは違います)。

    教会を探す 教会」とは、聖書を学び、共に歌い、共に祈るために、少なくとも週に1回集まる人々の集まりのことです。天国に入るためには罪人が救われなければならないと信じ、また聖書は神が人に語りかける完全で正当な方法であると信じる教会を見つけるには時間がかかります。辛抱強く探し続けましょう。よく祈ってください。私がアメリカで通ったことのある良い教会には、「バプテスト」、「グレース・ブレザレン」、「バイブル・フェローシップ」といった肩書きがついているところがありました。いろいろな教会を試すことを恐れないでください。もし自分に合わない教会に通うことになったら、その教会を去って新しい教会に移っても全く問題ありません。

以下のウェブサイトには、日本の教会を探すための教会検索機能があります http://www.jcfn.org/english.htm

    誰かに話す。今自分の身に起こったことを、他の誰かに話しましょう。友人に、親戚に。ほとんどの人は、あなたが神に近づく決心をしたことを喜んでくれるでしょう。また、コンタクトのページに行き、指示に従って私にEメールを送ることも考えてみてください。私は、あなたがイエスに従う決断をしたことを一緒に喜びたいと思います!

    バプテスマについて考えてみましょう。バプテスマとは「水に浸す」という意味です。バプテスマは象徴的な行為であり、他の人に目撃されることを意味します。バプテスマは、あなたがイエスに従う者、クリスチャンになることを決意したことを表明する方法です。良い教会を見つけたら、喜んでバプテスマを授けてくれるでしょう。

信仰をもって歩むあなたに、神の祝福がありますように。

信仰がなければ、神を喜ばせることはできません。神に近づく者は、神がおられること、また、神は求める者に報いてくださる方であることを信じなければならないからです。(聖書、ヘブル11:6)

律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるのです。(聖書、ガラテヤ2:16)

「先生、律法の中で最も偉大な戒めはどれですか。

主は彼に言われた、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も偉大な戒めである。第二の戒めもこれに似ている。この二つの戒めの上に、律法全体と預言者たちが成り立っているのである」。(聖書、マタイによる福音書22章36~40節)

Come conoscere Dio - Perché dobbiamo essere salvati?   Il termine "salvato" significa generalmente essere salvato dalla pena dei n...